反省と、自己嫌悪

2002年8月22日
近頃の私は、というか最近じゃなくっていつからだろう・・、よく言葉を不用意に出してしまう。
ん・・といってもむやみやたらと思ったことをぽんぽん口にするわけではなくって
一応、解る限り相手の気持ちを想像し、いろんなケースを考えて、言葉を選んでいるつもりなんだけれど。
けれど、その想像して、もしくはケースを考えて、
の爪が甘いのだ、きっと。
失敗したかなぁ。。。と思うことがしばしばある。
謝れる時はもちろん真剣に謝るのだけども
相手が不快感や気分損ねたのを知らせてくれない場合は、気づかず通り過ぎていることがままあるはずだ、と思って怖くなる。

で、原因もおよそわかっている。
(知っている失敗を省みる限りは、だけど)
相手の気持ちを傷付けないか、よく考えるには考えるのだけど、”うーん、危険かも?でもきっと大丈夫だろ”、と思ってGOサインを出してしまうのだ。
それは相手の側でなく、私側の境界線で判断しているからだ。
私は、それを言われても平気でも、相手はそうじゃないかもしれない、その辺りを気を配らなきゃいけないはずなのに、つい忘れてしまうのだ。
これを傲慢と言わずに何といおうか。(反語)ぉ

相手の許容量や精神状態によって、同じ言葉でも受け取り方が違ってくるのは、重々承知してるはずなのに。
頭でわかっててもついやってしまうのは、なぜなんだろう?
あー・・・・・・・・・・・・
(考え中)
そうか。
結局、私は相手も自分と同じように考えてほしい、って理想を無意識に押し付けようとしてて、それが
「これっくらいの言葉は笑って受け止めなきゃだめよ。もっと大らかにいきなー?」
って底で思ってるから、そんな危うい言葉を投げ付けてしまうんだ。
形は”○○しろ”とか”○○したら?”とかじゃないにしろ。


誰だって自分の弱いところを衝かれたら、反射的に反撃するだろうし
繊細な個所は鋭敏に反応してしまう。
それを「傷つく」って言ってると思うんだけど。
私は、この意味での’傷つく’に、案外鈍感だ。
何回かあった自分の中身を作り変える作業のなかで
自分で自分の存在を肯定するようにしてからは
たぶん、弱いとこや痛いとこ衝かれても、笑って済ませられるようになった・・・と思う。
(っていうか、私の性格では返ってそういうのバシッと言っちゃうような人だったら(あくまで悪意はなく、だけど)、愛しちゃう気がする。
あっはっはー!バンバン☆って肩たたきながら
もっといってよ、毒舌って大好きーーってなついちゃう気がする。笑)

だってね、それを他人に指摘されても、私の存在は揺らがないから。
[そうそう、そういう私なんだよー]って
私が自分で認めて、受け入れてあげている限り。

そりゃ’アンタに触れられたくないわよ!’ってのはあるかもしれないけど、
デリカシーのない人は嫌いだけど、
だけど内心ムカッとかハァ??とか思っても、傷ついたりはしない、と思う。(思うんだけどなぁ・・・確言できないわよねぇ?笑)

それを強さと呼ぶのかただの神経極太(油性)と呼ぶのかどうか知らないけど。
だけど、私は笑い飛ばすことができるようになって
ずいぶん気楽になった。
人に言われたことで、いつまでも気に病む、ということが激減したと思う。
そんで、楽になったから、自分がそれで助かったから
できたら他の悩んでる人にもそういう心持ちになってほしい・・・
って願ってるかもしれない。
”生きるの、楽よ?笑ってられるよ?”って。

だけど、そんなの無言でアピィルしたってねぇ・・?
しょうがないのに。私ってば。苦笑
やっぱり、これも自分の考え正しいだろ、自己正当化したいって願望のひとつなんかなぁ?

で。だけども。
そういうのが底にあるので、ついひび割れた危険な橋を楽観的希望に乗っ取って渡って破壊してしまうわけですが、
ここ数日で心当たりが数件・・ありすぎます(ぃ
ちょっと後になって
”あちゃーやっぱりまずかったかなぁ。やめときゃよかった。”
ならやめときゃいいのに。
なぜ、あの時やばいかな?と思った内心の声の方を採らないのだろう・・・うかつすぎる。
それは自分を抑え切れてないんだ。
無言で主張したいってエゴを出したいんだ。
そうだろう。。?

反省しきりです。
傷つかないったって、自分が傷つけたり嫌われたりしたら、やっぱり落ち込む。
同じような失敗、数回繰り返してきてるんだから
いい加減覚えよう。うん、今度こそ。
なりたい自分になるんだろう。。?
・・・うん。

痛いって思っても怒らないでいてくれた人、ありがとう。
黙って見過ごしてくれた人、ありがとう。
懐の深さに感謝します。。(ノω-、)
愛の大きさに敬意を払いたいです。
お心を無にせず、更に励みます。ありがとう。

で、感謝をして、私の反省&決心は終わりです。
あっさりすぎ?
だから、同じ事繰り返すのかもしれないけど(反論できないー

人にしてもらった(諭してもらった)話はよく残るけど、
自分で気づいて直す、ていうのはなかなか残りにくい。
どっかで自分に甘いからね。
で、繰り返しがちだけど。
けど何か印象に残っていたら覚えていられると思うんだ。がんばるよ。

^^^^^^^^^^
そこでね?
ああ、私ってなんてしょうがないやつなんだろう・・
思いやりなくて自分のことばかりでサイテーだ
こんな私、生きてる価値なんて、ないっ
(もしくは好きな人がいる場合、愛される資格なんてっ となる)

とかいう方向に考えちゃったら自己嫌悪まっしぐらなんですけど。
最近ならないんだ。
これも、もしかして傲慢なのかな?(汗
人は、適当に自己嫌悪して存在を否定しながら生きてった方がよいんでせうか。(いや真剣に
謙虚でいられる、という気もするけど、
それは単に卑屈になってるだけだという気がする。
根っこのところで自分の価値を知ってる人が謙虚になれるんではないかと、思う。


こんな私はだめだ
情けない、なんてだめなんだろう、○○失格だ

そう考えるのって、自己卑下して謙遜してるようだけれど
ほんとうは、逆なんじゃないだろうか、と私は考える。
そんな風に考える裏側には
[私ってもっとできるはずなのに。
もっとよい私でいたいのに。
○○にはこうでなきゃいけないのに。]
って考えがくっついているからじゃないのかなぁ?

もっとよい自分でいたい、って目指す向上心は立派だと思うけれど
こんなはずじゃなかった、って思うのは
自分はもっと上だった、と思っていたということにはならないのかな?
自分の力を知ってる人だったら、失敗すればきっと
ああ、努力(とか準備とか)が足りなかった、って思うだけなんじゃないだろうか。
あるいは、やはり、今の俺には届かなかった、上に達したかったのに、悔しい。と。
・・・自分を知らない、分不相応、というのもやっぱり傲慢な気がする。

山田詠美さんの本に
「私ってそれほどじゃない。
けどそれだけじゃない。」
ってセンテンスがあって、ああ、これだ!と思ったの。
そう、”それだけじゃない”って自分は信じてていい、と思う。

自分を相対評価じゃなくって、絶対評価で見るって大事なんじゃないだろうか。
日本の教育ってばずぅっと相対評価で、私たちってばその弊害に苦しめられ続けてるけどね。

”それだけじゃない”
そう思ったら、もっと力が出せそうにも思うっ(^-^*)


自己嫌悪なんて、しなくていいような気がする。
自分のことは、好きでいなくっちゃv
(の為にも反省は欠かさず!自爆)


+++
鬱病の友達がいて、
私は言える言葉はたくさんあるのに
迷って懸ける言葉がなくって、悩んで、こんなことを思いました。

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